星・雪・きらめき 緑の里 なよろ

新名寄市史

新名寄市史の写真
平成12年、名寄市の開拓100年を記念して発行された名寄の歴史書です。
先史時代から、アイヌの人たちの暮らし、明治30年代の開拓を経て、平成9年頃までの名寄の歩みが、各分野にわたって記載されています。
  • 構成
    • 第1巻(776ページ)…先史から昭和20年までの通史
    • 第2巻(926ページ)…昭和20年から平成9年までの通史
    • 第3巻(543ページ)…自然、史料、統計、年表など(名寄市開拓100年記念事業を含む)
  • 価格:12,000円(全3巻、消費税込み)
  • 販売方法
    1. 名寄市北国博物館窓口にて
    2. 現金書留などで前払い後に発送
  • 閲覧場所:名寄市北国博物館、市立名寄図書館、名寄市役所智恵文支所

目次構成

第1巻

  • 第1部 先住の人々
    • 第1編 先史時代の人々 (旧石器時代の遺跡、北筒式土器と智東遺跡、二つのチャシなど)
    • 第2編 アイヌの人たち (天塩アイヌの記録と伝承者、松浦の見た名寄、柳本通義の殖民地選定調査など)
  • 第2部 名寄太・チエブン原野への入植
    • 第1編 開拓と行政 (山形団体と他県移住者、上名寄村、智恵文村の置村経過など)
    • 第2編 開拓期の産業 (開拓期の農作物、水田の試作、市街地と商店、蹄鉄業など)
    • 第3編 開拓期の生活 (名寄駅逓所、渡船の始まり、アイヌ給与地の生活など)
  • 第3部 名寄の基盤づくり
    • 第1編 行政と議会 (名寄町の歴代町長、下名寄村から智恵文村の分村、名寄公園など)
    • 第2編 農林 (馬鈴薯と澱粉、名寄の土功組合、牛飼いの始め、造材山など)
    • 第3編 商工 (鉄道開通と商店、酒造業の興隆、亜麻栽培、二つの煉瓦工場、スキー製造など)
    • 第4編 民生 (名寄への医師の赴任、名寄町立社会病院の創設、伝染病と予防活動など)
    • 第5編 交通・運輸・治水 (地域の人が架けた橋、名寄線開通まで、電話の開通など)
    • 第6編 教育 (上名寄簡易教育所、戦時下の学校と二宮金次郎像、名寄中学校設置の建議など)
    • 第7編 司法・警察 (名寄分署と智恵文巡査駐在所、消防組の設置、忠魂碑など)
    • 第8編 文化・体育活動 (名寄新芸術協会と集産党事件、ラッパ鼓隊と吹奏楽、スキーの伝播など)
    • 第9編 宗教 (各集落の神社、仏教寺院の開教、天塩基督教会など)
    • 第10編 労働 (名寄労働組合、小作農と自小作農、タコ労働による建設工事など)
    • 第11編 生活 (自宅分娩と産婆、自転車の普及、活動写真から映画へ、配給生活など)

第2巻

  • 第4部 名寄市の展開
    • 第1編 行政 (名寄町と智恵文村の合併、市民憲章と市の木・花・鳥、初の首長選挙など)
    • 第2編 農林 (戦後開拓者の入植、モチ米と畑作へ、名寄の三つの農協、名寄の林業など)
    • 第3編 商工 (引き揚げ者とマーケット、天塩川製紙工場の誕生、雪まつりから樹氷まつりへなど)
    • 第4編 民生 (保健婦の活動、国立名寄療養所の設置、社会福祉協議会の発足など)
    • 第5編 交通・運輸・治水 (ディーゼルカーの登場、テレビの始まり、水害と治水事業など)
    • 第6編 教育 (新設中学校と校舎建築、名寄女子短期大学の開学、公民館の創設など)
    • 第7編 司法・警察・消防・自衛隊 (自治体警察、消防団、保安隊の移駐開始など)
    • 第8編 文化とスポーツ (名寄文化協会、名寄岩、まごころ国体の開催、ピヤシリスキー場など)
    • 第9編 宗教 (国家神道の廃止と法人化、名寄市戦没者追悼式、太子講と聖徳太子祭など)
    • 第10編 労働 (地区労の結成、小児マヒから子供を守る運動、名寄本線廃止反対の市民運動など)
    • 第11編 生活 (年中行事、銭湯の盛衰、新生活運動、姉妹都市リンゼイ、北国の生活文化を拓くなど)

第3巻

  • 第5部 自然
    • 第1編 名寄盆地の自然環境 (名寄の位置、名寄の気候、土壌区分、地形区分、地質構造など)
    • 第2編 名寄盆地の植物と動物 (植生、保護上重要な植物種、脊椎動物の概要、昆虫など)
  • 第6部 史料
    • 第1編 歴史 (山形団体移住規約書、明治35年上名寄村外二カ村戸長役場事務引継書など)
    • 第2編 開拓百年記念事業 (記念式典、記念行事、記念事業、功労表彰者など)
  • 第7部 統計
    • (歴代首長、選挙結果、決算、人口変遷、農作物、児童生徒数、戦没者、気温、降水量など)
  • 第8部 年表
    • 1807年(文化4年)から1999年(平成11年)

「新名寄市史」を読む

※「新名寄市史を読む」は、平成13年4月から8月にかけて「名寄新聞」に連載されたものです。
引用している文章のため、読み上げソフトで正しく読みあげない場合があります。

1 団体になぜ他県移住者

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山形団体

明治39年の山形団体(北大図書館所蔵)

名寄の歴史は、先住民であるアイヌの人々、さらに以前へと遡ることができますが、明治33年(1900)の山形団体の入植をもって、和人による開拓の始まりとされています。同年に入植した団体には、このほか福島県からの相馬団体、富山県からの越中団体、新潟県から下赤平を経た木原団体などがあり、翌年には岐阜団体、新潟団体、宮城団体など、市街地より先に周囲の団体開拓地に移住者が入っていきます。
山形団体は、明治33年5月15日、太田豊治を団長とする先発隊13戸38名が、名寄太に到着し開拓の鍬を下ろした、とされています。入植計画では34年にも13戸、35年に12戸の計38戸が移住することになっていました。団体入植は、個人入植に比べ総じて好成績を残すと言われていましたが、遠い北の土地への移住は、予定どおりにはいかないことの連続であったようです。旅の途中で親族を亡くしたり、当初から凶作や野ネズミの害などに見舞われました。以下『新名寄市史』の記述です。

入地翌年の明治34年の着手検査では予定の26戸に対し18戸の入地にとどまっていた。そのため当初の53万坪のうち18万坪の返還を命じられ、最終的に35万坪が貸付となった。この返還分の土地は山形団体の地内の西側に明治35年に入地した津軽団体(総代高橋牛之助、移住者10戸)が申請した18万坪に振り分けられた。十五線から十六線、東二号から東四号間に入地した津軽団体も5戸の入地にとどまっており、各自の事情もあり団体移住の予定戸数の充足の難しさを示している。(山形団体と他県移住者)

『曙沿革史』(昭和43年・荒瀬宗二)によると、山形県以外からの山形団体地入植者は、明治35年までに5県から12戸に上り、この中には、栃木県出身で元道議会議員渡辺秀次と元札幌市長原田与作の父親、渡辺粂七もいました。また、他の団体でも欠員を埋めるため、個人入植者など団体外の県からの人が加わって、地域を形成してきています。
これらは、第1巻第2部第1編第1章「開拓」で団体入植の経過として書かれています。

2 「なよろ」の地名由来

地名の「なよろ」が、いつ、どうして使われるようになったのか?これは、100年前の開拓より少し遡らなければならない問題です。『新名寄市史』は、開拓前の時代を第1部「先住の人々」として、先史時代からまとめています。地名については、その最後にあたる第2編第3章「開拓前史」の中に書かれています。
江戸時代後期の1700年代末から1800年代にかけて、探険家や役人の残した文献、地図に「ナエロ(ナエフツ)」「ナヨロフト」「ナヨロ」「ナイブツ」などの表記が現われます。これらは皆「名寄」に通じる名称だと考えられます。

文献と地図にある「ナヨロ」「ナイブツ」は、もともとアイヌの人たちが呼びならわしていたものを、和人が文字に表記したものである。アイヌ語の「ナヨロ」は「ナイ・オロ(川・のところ)」の短縮形で、文献や地図から見ると名寄川そのものを指すようである。名寄川と天塩川の合流点は「ナヨロフト」で、「ナイブト」とも記され、地点を指す。松浦武四郎は「天之穂日誌」では、「此処をナイフトと云うはナヨロフトの詰語なり」と記し、『天塩日誌』で「左ナイブト 本名ナヨロフト」と記している。(「なよろ」の地名)

この時代には、北海道に多くのアイヌの人たちが暮らしていました。そして、道南や沿岸部から入った和人が内陸部の調査を行っています。この時、アイヌの人たちに案内されて、聞きとめたアイヌ語の地名を、日本語の音に合わせた片仮名や平仮名で書き残したのでしょう。

「なよろ」が、漢字表記に登場するのは、明治期に入ってからである。(略)行政的には、明治30年6月30日付の道庁告示第140号で、上川郡上名寄村と中川郡下名寄村が置村されている。以来、行政文書には「名寄」または「名寄太」の文字が使われ始めるが、この漢字を当てた云われは不明である。新聞記事などでは、明治32年頃まで奈与呂やナヨロの表記も使われていた。(「なよろ」の地名)

「奈与呂」「奈余路」「奈伊太」、これらは「ナヨロ」「ナイフト」という音に漢字を当てたもので、明治20年代の資料に出てきます。それぞれ「名寄」「名寄太」を表していた古い表記といえます。

3 名寄の教育の始まり

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上名寄尋常小学校

明治38年の上名寄尋常小学校(西1条南1丁目)

団体開拓者の多くは一家揃って移住し、団体内には学齢期の子供が少なくありませんでした。入植者たちは、厳しい生活の中でも、子供に教育を受けさせようと考えます。

明治34年、越中団体長の大谷治郎市は、名寄太十一線の越中団体内(砺波)に自費で小屋を建て、季節教育所を開いた。農閑期に付近の児童を集め、治郎市の長男が読み書きを教えたという。前年からの団体入植により、相当数の学齢児童がいるのに就学できない状況を見てのことであった。(略)35年5月には、市街地の西4条北1丁目、真宗大谷派説教所に、私設教育所が開設された。のちに清満寺開基住職となる白井豊信が、説教所を増築し7.5坪(3間×2間半)の教室で寺子屋式教育を行った。近くに簡易教育所ができるまで数カ月の短期間である。
(上名寄簡易教育所)

〔智恵文でも明治〕36年になって一部有識者から〔学校の〕設置必要論が起こった。他の村民も賛成し、教育所設置を出願したが、校舎も教員もない状態であった。(略)柳原が道庁の紹介で赴任を承諾し、上川支庁で辞令を受けたのは5月。士別駅までは鉄道で、その先は歩いて智恵文十線の小堀商店に着いて尋ねると、(略)校舎はなく、驚いたという。急きょ十三線南三番地の角に間口3間、奥行5間(15坪)の小屋が建てられ、授業ができるようになったのは7月10日であった。
(チエブン簡易教育所)
名寄では明治35年5年5月、智恵文では同36年4月、公立の簡易教育所の設置が認可されますが、実際の開校は上名寄簡易教育所が10月、チエブン簡易教育所が7月です。教室や教員の手配が間に合わなかったのです。また、簡易教育所とは、開拓地などに設けられた特例の教育施設で、本来の初等教育はこの頃尋常小学校と高等小学校の2種類でした。これらが財政的に難しい場合に、設備や教育内容を簡略化した簡易教育所が許されたのです。しかし、実際には明治30年代まで道内の初等教育機関の3から4割は簡易教育所であり、不充分な内容であっても就学向上に貢献しました。上名寄簡易教育所は現在の名寄小学校、チエブン簡易教育所は現在の智恵文小学校です。

4 名寄支庁開設への夢

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名寄町役場

名寄町役場(大正末期・大通南1)

名寄が支庁所在地になる。そんな夢が描けた時代があります。決して一時的なものでなく、大正末期から戦時中を挟んで昭和30年代まで、希望が繋がっていたのです。
まず、戦前の動きとしては、大正12年に第23回北海道会通常会で多寄村出身議員などが提出した建議案「支庁設置ニ関スル件」(名寄支庁設置)が可決されています。

交通機関の整備された現在、網走、宗谷は広範囲で、支庁所在地が偏している。名寄に隣接する町村を区域とする天塩国上川・中川の両郡、網走支庁管内から紋別町と渚滑・滝上・興部・雄武の各村、宗谷支庁から枝幸郡、空知支庁から幌加内村を割いて名寄に支庁を設置すべきであるというものであった。(名寄支庁設置の建議)

関係町村や地域住民の利害関係に関わり、相当議論されるべき性格の案件が、難なく可決されたのは異例であり、翌13年の総選挙を控えた最終通常会であったためと言われます。しかし、北海道庁長官は、関係各支庁への影響を考えて慎重になり、戦時下で断ち切れとなってしまいました。
戦後は、昭和21年、名寄区裁判所管轄区域内の25町村が名寄支庁設置促進会を結成し、運動を再開しました。時代の変化に伴い、支庁再編への期待は他地域にもありました。23年、道議会支庁管轄区域調査委員会の小委員会では、名寄支庁の新設をはじめとして道内を11支庁とする案が審議されましたが、審議の過程で撤回され、道内9支庁とする案が調査委員会に答申されました。しかし、これも実施には至りません。

24年3月の道議会で(略)田中敏文知事は「区域変更の考えは変わっていない。目下いろいろ検討中であるが、経済情勢の変転による財政的な問題ということを強く考えておりしばらく猶予を願いたい」と答弁している。33年3月の市議会で(略)名取忠夫市長は「(名寄支庁)誘致を研究したい」と答えている。(名寄支庁設置運動の再開)

結局、北海道の支庁制度は、明治43年に14支庁を定めてから数が変わることなく90年を迎えました。抜本的見直しの声の一方、長い間に築かれた歴史、住民感情、地域の利害などが絡む改革は容易でありません。今後はいかに展開するのでしょうか。

5 鉄道宗谷本線の歩み

宗谷本線は、明治30年から大正15年まで約30年をかけて建設されました。かつて道北にも数多くの鉄路があり、中には、より古いものもありました。消えていった線の一方で、生き残った宗谷本線は、現在旭川以北唯一の鉄路です。『新名寄市史』の鉄道に関する記述は次の一文で始まります。

明治36年(1903)9月3日、鉄道「天塩線」の士別から名寄間開業の日、開業祝賀会出席者などを乗せた臨時列車が、午前7時34分旭川を出発して名寄に向かった。(略)この臨時列車で名寄駅に降りたのは93名であった。駅前は、日の丸の旗を交差し、角燈を吊るし、余興用の土俵まで設けた歓迎ぶりで、多くの人が迎えに出た。一日千秋の思いで待ち望んだ鉄道到着への喜びが表れたいる。(北海道鉄道敷設法による予定線)

宗谷本線の旭川から名寄間は、初め「天塩線」と呼ばれていました。明治30年、旭川から工事が始まり、士別までは33年に開業していました。名寄まで鉄道が通った日は、名寄の歴史の中で、記念すべき日の1つでしょう。明治33年から入植の始まっていた名寄ですが、鉄道開通を境に、人も物もぐんぐん集まっていきました。名寄以北については、日露戦争の影響などで工事が送れ、42年に再開されました。

44年11月3日に智恵文、美深、紋穂内、恩根内停留所まで開業、大正元年11月5日には咲来を経て音威子府まで到達した。(北に向かって)

音威子府以北の宗谷本線(天塩線の延長)は、当初建設されず、オホーツク海岸沿いの天北線が「宗谷線」の名称で先行しました。

一度は宗谷線に敗れた天塩線の延長工事は、大正5年に音威子府から誉平間から着工した。(略)最後に残った幌延から兜沼間の開通により全線開通したのは、大正15年9月25日であった。(略)昭和5年には天塩線を「宗谷本線」と改称し、従来の宗谷線は「北見線」と呼ばれるようになった。(天塩線か宗谷線か)

この間、大正10年には名寄本線が開通し、その後、昭和16年に名雨線(深名線)が開通しますが、名寄本線と天北線が平成4年に、深名線が7年に廃止されました。国鉄から民営化されたJR北海道は、平成3年に宗谷本線の名寄以北を宗谷北線として営業上分離しています。

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