星・雪・きらめき 緑の里 なよろ

「名寄岩」エピソード集

立浪三羽烏

昭和10年代初め、立浪部屋には、「立浪三羽烏」と呼ばれ、名寄岩を含む、絶大な人気を誇る3人の力士がいた。

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左から名寄岩、双葉山、羽黒山

ひとりは名寄岩の兄弟子・双葉山。もうひとりは、生まれは名寄岩と同じ大正3年で、入門したのは名寄岩より1年あとの弟弟子・羽黒山。双葉山は、名寄岩が入幕する前からすでに活躍し、昭和11年夏場所以来、3場所連続で全勝優勝を果たして昭和13年1月に横綱に昇進した。その横綱土俵入りに付き添ったのは、“太刀持ち”に名寄岩、“露払い”に羽黒山。双葉山は、相撲が強かっただけでなく、立浪部屋の力士頭として気を配る面倒見のいい兄弟子だった。名寄岩は当時を振り返り、こう語っている。
「本場所前に腹をこわし朝10時ごろ自分の部屋で寝ていた。すると双葉関がけい古まわしをつけたまま2階へトントントンと上がって来て、例の愛情のこもったふくみ声で『名寄、大事な場所前に休んではダメだ。サアー一丁やろう』と手をとって起こしてくれた。わたしは涙が出るほどうれしく、横綱の胸を借りて懸命にけい古をしたものだ。そのときの腹の痛いのはたちまちなおってしまった」
双葉山がひいき客に呼ばれる時には、弟弟子たちを連れていって紹介し、ひいきにしてくれるよう声をかけたという。また、自分への頂き物は部屋の力士たちに配り、自分の取り分がなくてもまったく気にする様子がなかった。そんな双葉山を名寄岩は兄弟子として尊敬していた。
一方、羽黒山は、順調に昇進し続け、名寄岩の弟弟子でありながら、最大のライバルでもあった。2人は、同じ部屋の力士でも、互いを敵対視し仲が良くなかったという。昭和14年5月場所は、名寄岩と羽黒山の相撲人生の大きな分岐点であり、立浪部屋の後継者を決める上で大きな意味合いを持つものだった。本来ならば先に横綱であった双葉山を後継者としたいところだが、双葉山はすでに結婚して独立し道場を開いていたため、親方は名寄岩と羽黒山のどちらかを自分の娘と結婚させて立浪部屋の後継者として迎えようとした。同時に大関まであと一歩だった両力士に、先に大関になったほうを選ぶことを提案。そして、10勝5敗の名寄岩に対し、羽黒山は11勝4敗。羽黒山が大関争いを制した。そして、立浪親方の長女と結婚し、その後の立浪部屋を担うこととなった。
「怒り金時」というあだ名が定着するほど闘争心をむき出しに戦う名寄岩。一方、偉大な兄弟子双葉山の存在の影で目立つことはなかったが、冷静沈着な取組みで確実に番付を昇り続ける羽黒山。まったく異なる性格の力士たちの上には、どっしり構える兄弟子の横綱・双葉山。かつては弱小だった相撲部屋が同時期に横綱1人、大関2人の「立浪三羽烏」を輩出するという偉業を成し遂げ、相撲界を盛り上げた。

太刀持ちの練習

名寄岩は、堂々とした太刀持ち姿を披露するため日々努力した。

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昭和14年8月27日 名寄町での相撲巡業

横綱・双葉山の土俵入りで太刀持ちを務めるのは名寄岩

兄弟子・横綱双葉山の土俵入りの時、名寄岩は太刀持ちを務めた。太刀持ちは横綱の右横で、肩に水平に腕を上げて刀を掲げる動作をする。名寄岩はその役目を堂々と果たすため、水の入ったコップを持って腕を上げた状態を保ち、5分、10分と時間を計りながら、長くその姿勢を保てるようにいつも訓練していたという。

「怒り金時」

取り組み中の怒る様子から、いつのまにか定着したあだ名は「怒り金時」。

名寄岩の写真
度を越すほどの生真面目人間、名寄岩。勝負の駆け引きなどまったく考えない。花道に立った時から闘志むき出しで、鬼の形相で土俵に上がる。仕切りに入ってますます鬼の顔が鋭くなり、相手を厳しく睨みつける。いざ立ち合いとなると、直線一本、相手が誰であれ「左差し」から強引に寄り進む。得意の「左四つ」に組み込むや否や、熊にも勝る怪力で相手を引っ張り込み腹の上に吊り上げてしまう。右の手がまわしに届かない時は、相手の背中の肉をむしり掴んで吊り上げることもある。この強引極まる取り口に相手の力士は戦々恐々。そんな中、出羽海部屋古参の力士・大邱山が考えた。
「名寄に勝つには刃物はいらねえ。怒らして、からかおうや」この一声から始まった、対名寄岩戦法。闘志みなぎる名寄岩を、立ち合い前で焦らし、不意打ちに押してみる。しびれを切らし、怒りに怒る名寄岩。その後は、相手力士が頑張らなくても、理性も冷静さも失い、力みすぎた名寄岩をかわせば勝手に名寄岩が負けてくれる。一本気で融通の利かない名寄岩の一面であった。

礼儀としつけ

名寄岩は土俵の上だけでなく普段の生活でも礼儀を重んじる人物として知られている。自分の子供でなくても、周りの子供にしつけが必要なときにはしっかり諭したという。

たとえば、大勢の子供たちにサインを頼まれた時、順番を守らない子にはきちんと「割り込みはいけない」と注意した。帽子を被ったまま挨拶する子供やよれよれの紙にサインを頼んだ子供には、ひとに何かを頼むときの心構えを説いたという。また、ひいきの家で食事をご馳走になった時、その家の子供が食べかけて残した皿を見て、食べきれないなら箸をつけてはいけないと注意した。相手が誰であっても、良くないことは誠意を持って注意する。裏表がなく、一途に礼儀にこだわる名寄岩であった。

番付表の送付

受けた恩を忘れない名寄岩が送付する番付表の数はナンバーワン。

ひいきに送付する番付表。その数が一番多かったのが名寄岩といわれている。それは、引退して春日山部屋を興した後も同じで、その数1500人。その住所録には没落した旧家、旧大臣、軍の大将から音信不通になった人や故人まで載っていた。かつて一度でも、祝儀をくれた人や応援の声をかけてくれた人に、本場所ごとの挨拶の番付表を律儀に送り続けたという。時代が移り変わり相手の立場が変わっても、自分の相撲の弱い時期に離れていったファンであっても、受けた恩を忘れなかった。

親孝行

家業を手伝う少年時代の名寄岩の姿が数多くの人に目撃されて、名寄での彼を知るエピソードとして語られている。上京して力士になってからもその親孝行振りは変わらなかった。

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昭和18年、大関・名寄岩と父

ある時、ひいきにしてくれる家に泊まった時のこと。布団を敷いてもらってから、その家族に名寄岩は、北の方角はどちらか聞いたという。聞かれた家族は、北枕を心配してのことかと思ったが、その逆に名寄岩は、北枕でなくては寝られない、と主張した。その理由は、北海道の親に足を向けて寝るわけにいかないから、というものであり、名寄岩を家に泊めたその家族は名寄岩の親を思う気持ちに感動したという。また、名寄岩本人が家族についてこう語っている。
「親が喜んでくれることは、なんといっても嬉しいことです。親たちが死んでから、自分たちは楽しめばよろしい。親の生きている限りは、親を第一に、という気持ちです。人間はすべてまわり合わせといえましょう。私たちが一生懸命に育ててゆけば、子供たちが大きくなって、親が動けなくなった時には、面倒を見てくれるのではないでしょうか。私はこのように考え、親にも仕え、子供も育てています」(『日本週報 第305号 昭和29年10月25日発行』 土俵は偽らず)

手刀

名寄岩が、忘れかけていた古来の作法を復活させた

昭和41年(1966年)7月場所以降、「手刀を切って懸賞金を受け取ること」という規則が協会によって明文化されている。手刀を切る作法の始まりは江戸時代にさかのぼる。千秋楽の結びの三番には勝った力士がそれぞれ矢、弦、弓を受け取る習わしがあった。後に大関に代わって弓取り式の力士が弓を受け取るようになった。その時に行事が差し出す弓に手刀を切る動作が行われたが、今のように懸賞金を受け取る時の作法ではなかったようである。その動作を自分から行い広めたのが名寄岩。懸賞金を受け取るときに、礼儀正しく手刀を切った名寄岩の動作が人々の目に新鮮に映り、他の力士たちも行うようになったという。
現在の「手刀を切る」とは、懸賞金のかかった取組の勝ち力士が、行事が軍配の上にのせて差し出す懸賞ののし袋を受け取る際、その軍配の上で5本の指を伸ばした片手を左、右、中へと振る作法。(財団法人)日本相撲協会監修の大事典『相撲大事典』(現代書館)によると、「…軍配に向かって左・右・中の順に手刀を切る。この作法は、左が神産巣日神(かみむすびのかみ)、右が高御産巣日神(たかみむすびのかみ)、中が天御中主神(あまのみなかぬしのかみ)の五穀の守り三神に感謝する礼儀とされる。…」とある。

力士の鏡

名寄岩の相撲に対する真面目さが評価されて特別賞を受賞。

力士として致命的な病に罹りながらも、ひたむきに精進して土俵に戻ってきた名寄岩。一度は前頭14枚目まで陥落したにもかかわらず、三役に復帰するという前人未到の偉業を成し遂げた。その前向きな姿勢は観客を魅了しただけでなく相撲協会をも動かした。昭和29年5月場所千秋楽、その場所の名寄岩の成績や番付の動向に関係なく、名寄岩の相撲に対するこれまでの熱意と努力を評価し、特別表彰を贈与した。表彰状は、「貴下が再起不能とまでみられた病患を克服…」に始まり、「相撲界に前例のない快事であり偉業であります貴下の敢闘は後進力士にとつて好箇の師表であるのみでなく、相撲史に特筆さるべきもの」とあり、名寄岩の健闘を称えている。

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