「名寄岩」になるまで
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名寄での少年時代
4歳6ヶ月の静夫少年
小学校卒業後は、名寄中等夜学校に進学。熱心に通学したが、昼の重労働の疲れから授業中に居眠りすることも多く、数学や英語などの教科は苦手だった。その半面、体育の時間は別人のように積極的に参加し、特に柔道は始業時間前に登校して練習するほど好きだったという。
養豚業を営んでいた岩壁家には、町内で有名なもうひとつの顔があった。母・はしの「お灸」である。これは神経痛や肩こりによく効くというので、多くの人が岩壁家を訪れた。しかし、母は鍼灸の免許状を持っていなかったため正式に開業できなかった。そのため、親孝行な静夫少年は、鍼灸師の資格を取れば両親の助けになると信じてその道に進むことを決意。夜間中学を卒業した昭和6年春、16歳の静夫少年は、東京の両国にある鍼灸の学校で学ぶことになった。
相撲の道に進むきっかけ
昭和10年春場所の頃の名寄岩
名寄岩ところが、鍼灸師になることを固く心に決めた静夫青年はなかなか同意しない。おいしいちゃんこや昇格すればお金が稼げるという誘いに少しずつ耳を傾け始めた静夫青年が目指す職業を転換するにいたった最後の決め手は、文章が得意な光石鉄之助が立浪親方の名で送った北海道の両親宛ての手紙。両親からの返事は、「一人前の相撲取りになるまで帰ってくるな 父善信」というきびしいものだった。こうして、後に引けなくなった静夫青年は、立浪部屋へ入門することになる。
静夫青年の体格の良さに惚れ込み、彼の弟子入りに大喜びした立浪親方は、有望な弟子が現れたらつけようと考えていた四股名を彼に与えようとした。自分の現役時代の四股名である緑島の“緑”と立浪部屋の“浪”を合わせた“緑浪”である。ところが、岩壁青年は、これに満足せず、故郷の名に苗字の一字を合わせた四股名を申し出た。親方の決めた四股名を断る静夫青年の強情ぶりに親方は呆れたが、大きな体格だけでなく相撲取りに欠かせない強気な性格を持つ彼を好ましく思い、本人が申し出た四股名を許すことにした。こうして「名寄岩」が誕生した。
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